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 予告編で何度も観ていたけど、それほど惹かれなかった本作品。
 しかし、twitterなどの評判が異常に高いので行ってみました。

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 井上真央と永作博美。
 いずれ劣らぬ丸顔童顔の二人が親子であるという時点で、その遺伝子の強さが意識されるわけですが、この二人が本当の親子ではないというのがこの物語のキモです。

 井上真央の実の父と不倫関係にあった永作博美。
 彼との間に子供が出来たが、彼の要望により堕ろすことになる。
 これにより、永作博美は一生子供を産めない身体に。

 そして、井上真央の実の母親に子供(=井上真央)が出来る。
 彼女は家庭を守るために、永作博美を罵倒し、不倫関係を終わらせる事に成功する。

 この時の、罵倒の言葉が凄まじい。

 そして、心が空っぽになった永作博美は、ひとめ彼の赤ちゃん(=井上真央)を見ようと彼の家に忍び込むが、ついうっかりそのまま誘拐してしまう。

 そのまま井上真央を育て続け、4年後に逮捕されるまでの逃避行の様子と、20歳くらいに成長した井上真央の母親を追いかける旅が交互に展開していくのが、この映画の主題です。

 4歳まで永作博美を母として育ってきた井上真央は実の母親を親として見ることが出来ない。
 そのことに対してヒステリックに対応することしかできない実の母との心は離れていくばかり。
 4歳まで、あふれんばかりの愛情を受けてきた少女が、その後一切の心を閉ざして空っぽになってしまう。

 その心の空白が、母親の面影を求める旅の中で埋まっていく様が非常に美しい。

 公園のトイレのシーン、島での自転車を乗るシーン、そして、井上真央がたどっている人生。
 そのポイントポイントが、永作博美との同化のステップになっているわけです。

 以前、ザ・ファイターでも書いたのですが、この映画からも感じるのが、

「血のつながりってなんだろう?」
 
 ってことです。
 ザ・ファイターでも、実の家族は滅茶苦茶な連中ばかりでしたが、この映画でも井上真央の実の両親はヒステリー&浮気性の、ろくでもない夫婦です。
 
 それに対して、永作博美は、
「明日もこの娘 といっしょにいることができますように。
 一年後、五年後などと大きなことは願わない。今日一日、それから明日一日、それだけでいい。だからどうか私の祈りを聞いてください」
 と、悲痛なまでの切ない祈りを捧げます。

 そして、この永作博美との生活と、実の両親との生活の落差が、井上真央に「私は誰からも愛されたことがないから、どうやって子供を愛せばいいのかわからない」と言わせるまでの心の傷となっています。

 血のつながりという障害物によって、人と人との繋がり方を見失い、実の子を愛する自身すらなくしてしまうという、この矛盾。

 日本企業の「家族的経営」は、機能しているときにはこの上ない一体感を生み高度成長を生み出したわけですが、思ったように収益が伸びなくなったときにただのめんどくさいしがらみになったように、血縁関係というものも絶対ではないのだなということを感じます。

 実際問題、永作博美と井上真央は、逃避行中、血縁関係とは全く関係ない、宗教団体的コミュニティや地域社会に守られて幸せに生活していたわけですから。

 ただ、問題は、そうやって自分で血縁関係を無視した、新しい道を切り開いていったとして、それで全てが上手く行くわけではないことです。

 実の母が井上真央を愛せなくなり、よりヒステリックになった理由は、永作博美の誘拐が原因であり、それはどうあっても肯定できるものではありません。
 自分の中の母性の赴くままに生きていくことは、実の娘までも傷つけてしまうことになる。

 母性の暴走を、終止、痛々しいまでの切迫感を持って演じた永作博美と、
 無表情な前半から、段々と取り戻していき、最期に母性を取り戻すという変化を演じた井上真央。
 この二人が、本当に素晴らしい映画でした。

 自ら選んで人生を生きることの大切さと、その暴走の危険性。
 それでも、生きていかねばならない事の残酷さと、希望。
 いろんな感情が渾然一体となって、生きていくことの難しさを改めて考えさせてくれます。

 
 
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